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自殺しない、させない
苦 悩 か ら の 克 服
自 殺 し な い
身近な人を自殺させないために
苦 悩 か ら の 克 服
代償的なものに逃げるのではなく、「苦悩からの克服」するにはどうするか。
悩 み の 本 態 を 知 る
「悩みを解決するために、まず第一に必要なことは、「悩みの本態」を知ることである。人間は自分が苦しいと悩みをかこちながら、案外、自分の悩みの本態を知っていないことが多い。」(R188)
「悩みから解放されるためには、まず悩みの本当の姿、すなわち「悩みの本態」を正確に知らなければならない。」(R190)
悩みを克服するには、現象面にとらわれず、真の原因をつかむ必要がある。たいてい、真の自分を知らないために、悩みの本態をも知らないために、抜本的な苦悩の克服ができないわけである。
- 悩みの本態が表面にあらわれた身体症状ではなく、内面に潜んだ精神的ストレス
「たとえば、前章で紹介した、会社に行こうとすると頭痛がおこったり吐き気がおこったりする某氏は、身体の苦痛をこのうえない悩みと感じているが、実際の彼の悩みはそうではなかった。長い間母親の腕の中に囲われていて、そこから出ることができないことが彼の悩みの本態なのであり、過保護で、何事においても人に立てられていないと気がすまない自分が、後輩に先を越されるかもしれないという不安におびやかされたことが、悩みの本態だったのである。」(R188)
- 抑圧された過去の心の傷
右肩の上のちょっとした傷のために自殺をはかった女性の例をあげて(R189)
「彼女の悩みの本態は、眉の上の傷にあるのではない。彼女が五歳のときに、両親のいさかいのとばっちりをうけてできた傷だからこそ、彼女はその傷に悩むのである。彼女の心の内奥には、夫婦の争いのために自分に愛を向けてくれなかった両親の冷たさに対する悩みが、長い間抑圧されていたのである。そしてその過去の心の傷が、彼女の眉の上の傷に象徴されて表現されたのである。」(R189)
- 対人恐怖症の悩みの本態
顔が赤くなることや、視線に違和感のあることを悩む対人恐怖症。実は、自分の心に内在するなんらかの劣等感のために、人とうまく接していけぬことが悩みの本態。(R190)
- 心臓の停止を恐れて電車に乗ることのできぬ不安神経症者
心悸亢進や呼吸緊迫を訴えるが、真の悩みではない。
「姑とうまくいかなかったり、夫の浮気を苦にしたり、会社の上司と軋轢があったり、子供の進学に悩んだり、という症状の裏面に存在する現実生活上でもストレスが悩みの本態なのである。」(R191)
幸福を求める人は幸福になれない
アメリカの精神分析医の長老メニンジャーが興味深い随筆を書いている。
「彼は、人間には二つのタイプがあって、一つは幸福がほしい、幸福がほしいと、幸福を求めるタイプであり、もう一つは真実を求め、現実を直視するタイプだという。結論として、幸福をほしがる者は、現実にはなにも努力をせずに腕をこまねいているので、幸福がやってくるわけはなく、結局そのような人には幸福は与えられない。
一方、真実を求める人は、自分が置かれた現実と自分の本当の姿を知っているので、次々と直面する苦悩こそ世の中の真実だと認めている。そこで、ひとつひとつの苦悩の対象を解決するように努力をし、それを乗りこえて新しい境地を拓いていく。その結果、ひとつの苦悩が終り、次の苦悩がやってくる間隙に、真の喜びが、真の幸福が訪れるというのである。
つまり、この二つのタイプの人間の、どちらに本当の幸福がやってくるかは自明のことであって、「おすきな方を」自由にお選びなさいというのである。」(R192)
「人間は自分の悩みの本態を認識せず、主観的な願望と事実をすりかえて、自らの合理化に悩みを利用することが多い。そこで、時によっては日常生活の流れから離れて、じっくりと自分の生き方をふりかえり、この現実での自分の悩みの本態は何かと、自らに問いかけてみることが重要であろう。」(R195)
誤った合理化は、自分の知性はだましおおせても、感情はだませない。誤った合理化は、神経症になっていく。マインドフルネス、アクセプタンスを実践していると、こういうことも自覚される。マインドフルネス心理療法はこういうことを超えて、さらに高次元の自己について探求をすすめる。
今、この現実を真剣に生きる
「いまわれわれが自由にできる時間は、ここで直面しているこの時間だけなのである。したがって、この時間を最高に大切にすることができるならば、それはこれからやってくる未来を大切にすることになり、この時間がつくっていくであろう過去を大切にすることにもなる。」(R204)
人 間 は 共 存 と 愛 を 求 め る
「人間はロビンソン・クルーソーになり切ることはできないのであって、孤独であればあるほど、自分の理解者や同伴者を求めたくなり、心も体も触れあうことのできる人がほしくなる。」(R207)
「最高の特徴はなにかと考えてみると、それは「愛」ではないだろうか。そこで愛とはなにかと問われるなら、筆者は人間と人間の出合いからまず愛が始まると信じている。」(R208)
「人間は生まれながらにして他者とのよき出合いを、共に生きることを、愛を求めているのである。」(R208,R209)
岩井氏は、人との出会いを言う。しかし、人を信じて、裏切られたことの多い人は、人との出会いを信じられないかもしれない。
では、「真の自己」との出会いに活路を見出せないだろうか。私たちは、人間との出逢いのほかに、すべての人間の底にある愛の根源、自分を包みどこまでも自己を生かそうとする慈悲の働き、真の自己に出会いたいものです。
共 存 と 愛 を 求 め て
苦悩から逃れようとして、しばしば、宗教、芸能人おいかけ、非行などに求める。このような代償的行動に走れない人が、悩みの克服に失敗すると、こころの病気になる。
- 宗教に求める
人との出会いを求めて、宗教者や、特殊な人、集団を求めることがある。こういうことを、岩井氏は、すすめない。
「冷たい家族に満足できない娘たちは、「イエスの箱舟」の教祖である身内さまを父親代りに求め、心に不安をもつ人々は、新興宗教の教祖や、指導者や、仲間たちとの心の交流を代償的に求める。家族や学校や社会からはみ出した青少年たちは、ロック・フェスティバルや暴走族の集団に心の交流を求める。これはむしろ、科学主義万能の現代、連帯性欠如の現代にあって、ひとつの逆行現象といえ、このような現象は、現代人の心の歪みを如実に物語っている。」(R209)
- 心の病気、非行グループ
「したがって、悩み、不安を処理することができない人々は、神経症や心身症の症状をつくり出して、そこに逃避して自己防衛をしようとし、内在化する不安や悩みを自覚し得ない若者たちは、アグレッション(攻撃)を親や教師に向けて暴力化し、あるいは非行化する。」(R209)
悩 み を 超 え て
しかし、そういう代償的なものでもなく、非行にも走ることなく、苦悩を克服したい。岩井氏は、「第三の眼」を開くことを勧める。岩井氏は、精神医学者であるが、「大きな存在との関係」に言及していく。
生かされている
「考えてみると、われわれ人間は、自分の意志によってこの世に生まれたのでもなけば、自らの意志によって死ぬのでもない。ある日気がついてみると、何らかの力によって、"生かされていた"のであり、明日もまた不確かな人生を生かされることになる。そして自分の意のままにならぬ出会いと喪失に直面させられるのである。」 (R211)
第三の眼
- 「悟った人間には、眼が三つあることを知った。」(R223)
- 「第三の眼は、第一に自分がいかに在るかということを見る視点をもった眼であり、フロイトの言に従うなら"スーパー・エゴ"的な眼である。それは人間にとっての価値や、倫理や、道徳などの概念をも包含する眼である。」(R223)
- 「さらに第三の眼は、自己の存在と他者の関係を見つめ、そして自分たち人間やあらゆる生物を生かしてくれる、さらに大きな存在との関係を見つめる眼である。」(R224)
第三の眼を持つと、苦悩が明確に見えてくる。
- 「その時人間は、二つの道の選択を迫られる。悩みを真剣にひきうけて困難をのり越えようとする道と、悩みから逃れて安楽な生き方を見つけようとする道のいずれかである。
そこで悩みから逃れようとする道を選んだ場合、逆に悩みはどこまでも人間を追いかけてきて離れない。追いかけられる人間は、自己防衛のワクをめぐらし、自らそのワクのなかに閉じこもり、神経症や心身症の症状をつくり出して、本当の人間の苦悩を避けようとする。」(R225)
逃げる人は、第三の眼を持って人とは言えまい。神経症や心身症になるのであれば。
- 「一方、やってくる苦悩に対して正面から立ちむかい、それをのり越えようと努力する人には、それまでに体験しない新たな境地が拓けてくる。」(R226)
- 「人間が苦悩を解決するということは、決して苦をなくすることを意味するのではない。自分にとっての苦は、
いったいなにを意味するのか、それはどこから発するのか、その点をよく知ることが必要なのである。つまりそれが、第三の眼をもって自分の真の存在を見ることであり、「自己洞察」につながる。そして、自分が真に苦とともに在る存在だと認め得たときに、限られた人生を生き、苦をになった自分であればこそ、その人生をいかにして充実したものにしていったらよいかがわかってくる。 」(R227)
苦からの出発
「苦悩から逃げることなく、ともに悩む人々を想い、苦悩を分かちあう人間への平等感を深め、自らを愛するように他者を愛することに努めるならば、そこには相互信頼と人間としての連帯感がうまれてくるのである。
"悩み"−それは、人間のものなのである。」(R227)
○ここからの出発
岩井寛氏の著書はここで終わった。さて、氏の結論はこうである。これが自殺を防ぐ道でもある。
「苦悩から逃げることなく、ともに悩む人々を想い、苦悩を分かちあう人間への平等感を深め、自らを愛するように他者を愛することに努める」(R227)
岩井氏のこの結論に同意する人は、これを実現しなければならない。実現するための行動に移さなければ、「読んだだけ、理解しただけ」であり、実現はしない。実現のためには、種々の道があるだろう。その一つに、マインドフルネス、アクセプタンスの実践があるのは言うまでもない。マインドフルネス心理療法の標語は次のようであるから、岩井氏のいう方向と一致していることは想像されよう。
- (1)苦悩から逃げない
苦悩(病苦、経済苦も含む)も災害も不幸らしきものも、今、ここ、現在(それが現実である)の恵まれた生命の現実として嫌わず、そのまま受け止め(あるがまま、受容)、自分のできることをベストを尽くしていく。これは氏の「苦悩から逃げることなく」というのに通じるであろう。その場所から逃げてはいけない、困難な状況を避けてはいけない(神経症者の行動)。生命の現実を嫌ってはいけない(うつ病者の病前の傾向)。
「そのまま」とは、もちろん何もしないことではない。もちろん、とれる対策、改善できることは、ベストを尽くす(変化を伴う受容)。病気の治療でも、仕事でも、工夫で改善できることはベストを尽くす。自分の立場では、どうしても変えられないこと、例えば、人間関係などは、それを受け入れていく。
病気の症状の除ける痛みなどの症状は、医者にかかりできるかぎり軽減してもらう。その上で残る不自由、不都合は、痛みなどは、それを受け入れる。
こころの問題は、微妙であるから、間違った(こころの葛藤を起こす)基準を持ちやすい。何かしようとする時、起きる不安、動悸などの身体の現実をそのまま受け入れず、逃走回避する、嫌い、なくそうとする、誤った対策「はからい」をすると、神経症になるのであるから、これも、そういうこころの真実の姿を見極めて、不安という感情は、嫌わず、止めようとせず、生じる不安は、そのまま認めることが大切である。不安や、動悸がありつつ、それにとらわれることなく、なすべきことをしていく。
人間関係においても、相手が自分の思いどおり動かなくて、不満や怒りたくなることも多い。しかし、相手は、それで生きてきたのだ。それぞれのやりかた、生き方、基準がある。だから、こちらのものと比較すると合わずに、種々、苦労はある。苦労をなくそうとしたり、嫌って、逃げようとすると、状況を見誤って、ベストの力を発揮せず、あるいは、問題を深くしていきかねない。人間関係においても、不満や怒りになりそうなことも、嫌って、いつまでも不満や怒りをためていれば、関係がこじれていくし、こちらは、心の病気になりかねない。困難な人間関係でも、相手の立場を思い、大きい心で包んで、相手のわがままらしい現実をもそのまま受け入れ、相手の行動などもそのまま受け入れてやって、自分のすべきことをやっていけばよい。
- (2)苦悩をなくそうとするのではない
岩井氏も「人間が苦悩を解決するということは、決して苦をなくすることを意味するのではない。」と言っている。たとえば、ガンを無くそうとするのではなく、ガンがあっても精神的な苦悩にしないことであろう。さらに、次のステップは、「自分にとっての苦は、いったいなにを意味するのか、それはどこから発するのか、その点をよく知ることが必要なのである。つまりそれが、第三の眼をもって自分の真の存在を見ることであり、「自己洞察」につながる。」こういうことが、何を通して達成されるのかを私は知らない。私は、それをマインドフルネス、アクセプタンスを通して実現していきたいと思う。そして、それができると思う。
- (3)苦悩がありながら涅槃(安楽)
岩井氏は、「そして、自分が真に苦とともに在る存在だと認め得たときに、限られた人生を生き、苦をになった自分であればこそ、その人生をいかにして充実したものにしていったらよいかがわかってくる。 」という。
信仰すれば病気にならないというのはうそである。人間は、いかにしても、病気や死を逃れることはできない。現代の医学ではだめだといわれた病気が、信仰のおかげで治ったという話を聞くが、確かに、そういうこともあるだろう。信仰を持ったために、勇気や喜びを得て、人間がもともと備えていた免疫力が向上したのであろう。ただし、真の宗教者は、人に向かって、「私への信仰のおかげだ」などという低級なことは言わないだろう。
どんな病気でも、どんな苦労でも、あるだろう。そういうことがあっても、生き抜く力を与えたもうのが真の絶対者なのであろう。苦悩も病苦も「みこころのままに」である。自分の都合のいいものだけを与えたまえ、というような要求を持つ者は、何か人生上の出来事に弱い。
人生は無常である。どんな苦労があるかもしれない。しかし、どんな苦労があっても、生き抜いていくことができれば、何があってもいいのである。
良寛がいうのは、このこころかもしれない。
「災難にあう時節にはあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これは、これ災難をのがるる妙法にて候。」
- (4)他者を愛する
「ともに悩む人々を想い、苦悩を分かちあう人間への平等感を深め、自らを愛するように他者を愛することに努める」という氏の理想はどう達成されるだろうか。
「他者を愛することに努める」ことが大切。人里離れた道場にとじこもって自分だけの安心に落ち着いているのが小乗仏教(釈尊は他者の救いに奔走したから、その仏教は釈尊の精神から離れた)の僧侶であったが、それは「他者を愛していない」他者の救いを考えない。それでは社会的存在価値がない、として大乗仏教が起こったという。
自分をみつめ、自分が悩む様子がわかると、それで終わりとしないで、それからは、他者が同様に苦悩しているのがわかったのだから、その救いに乗り出せ、と他者の救いまでを仏教者の目標と再確認(本来釈尊の教えがそうだったようだ)したのが大乗仏教であったのだろう。こういうことから、真に人間は平等であると一人で(教団という組織に頼らず)他者を救う力を持つ宗教者は、岩井氏のいう理想を実現できるであろう。宗教も誠実なものは、岩井氏の精神に近いだろう。
- (5)私にできる限りで
そして、それは、偉大な人々のように強大な影響力がなくても、いいではないか。そこでもまた、基準を持ってはならないだろう。一人一人、事情が違う。一人でも救えればいいではないか。
「私はとてもできない」と卑下するのは間違いである。生命は、人間が作ったのではない。卑下などできるものではない。岩井氏が言うのも、生命を生きることの意味を言っている。「"悩み"−それは、人間のものなのである。」人間である限り、悩みはある。あっても、主体性を失わず、生き抜いていこう。
田宮虎彦は不幸にして自殺したが、私は、彼の小説『足摺岬』を中学時代に読んで、その中にあった次の言葉が忘れられない。自殺しようとして岬に行った男に、遍路の老人が語る言葉であったと思う。多少、言葉が違うかもしれないが、記憶している限りで書いた。40年間、心に刻み込まれた言葉である。
「生きるってことはつらいことじゃが、生きておるほうがなんぼいいことか。」(『足摺岬』 田宮虎彦)
自殺したいと思ったほどつらい思いをした人が、克服して、後に、この同じ思いをしみじみと、うなづいていただく日がくると信じます。
決して、自殺しないでください。
自己洞察瞑想療法は宗教以前
精神科医の岩井氏が、宗教的な領域にまで踏み込んだことを言われるので、この記事は、スピリチュアルな領域まで踏み込んで考えました。そこまで、自己洞察を深めるのは生涯の課題でしょう。
しかし、自己洞察瞑想療法は、宗教ではなく、心の病気の治療法ですから、6か月から2年ほどで、心の病気を治癒させることを目標とする。
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